夜明

大学生の日々と写真

21歳になったと思ったら22歳を目前にしていた

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写真はiPhone11に変えた帰り道の渋谷。画質が上がりすぎて数万円レベルのカメラの存在意義が無くなってきて悲しい。

 

久しぶりにブログを開いてみた。

自分で言うのも何だが、自分は周囲も認める、極度の熱しやすく冷めやすい性格であり、ハマると時間の全てを捧げてしまうが、飽きてしまうと頭の中からきれいさっぱり抹消される。ブログにハマった数日間は狂ったように文章を書いていたがいつの間にか抹消されていたみたいだ。

考えをスマホのメモに記録するのと、手帳に日記形式にして考えを残しておくのは習慣になっているので長い間続いているものだが、どうにもブログ形式で少しでも周りの目を考えて、少しでも推敲をしながら文章を書くのは少し疲れる。

 

ブログを読み返していたのだが、どうにも過去に書いた自分の文章というのは小恥ずかしいもので、この感覚はものを書いている人間なら割と持っているものみたいだ。僕の好きなブロガー数人も言っていたし、二十歳の原点高野悦子も言っていたな。数年後にこのブログを読み返してまた同じ事を感じるんだろうな。

 

ハタチ、になる前は年齢というものに恐怖を感じていた。毎日毎日が過ぎていくのが、子供から大人になっていくのがすごく怖かった。

だから必死になって同年代の書いたブログを読んだり、人と話したり、原田宗典「十九、二十」、高野悦子二十歳の原点」などをはじめとした大学生が主人公の小説の読み漁っていた。若い頃に絶対に読んでおけと言われた本は全て読んだし、何が僕をあそこまで突き動かしていたのかはよく分からない。

27クラブ、というのは音楽や芸術が好きな人間なら必ず知っている言葉だ。カートコバーンやジミ・ヘンドリックスなど多くのアーティスト達が27歳という年齢で亡くなった。死因は、自殺だったり、ドラッグのオーバードーズだったり、交通事故や殺人まで多岐に渡る。

20歳の自分は老いていくのが、自由で無くなっていくことがとても嫌だった。だから27歳くらいで死んでやろうと本気で思っていた。どうやって死ぬのが一番いいのか、人生の消費期限みたいなものをずっと考えていた。腐ってしまったのに、老人となっても、のうのうと生き続けていくのは何かに対して失礼なのでは無いかと思っていた。

 

でも周りで自分を大切にしてくれる人達の存在に目を向けるようになってから、そんなに勝手なことは出来なくなってしまった。仲のいい友達たち、両親、弟、お爺ちゃんお婆ちゃん、仕事仲間。関係性は疲れるものではあるけれど、素晴らしいものだと思う。人は繋がっていなければ、他者が存在していない世界ではただ生きていくことしか出来ない。

将来は、3人くらい子供も欲しいと思い始めたし、こんな家に住んで、こんな感じに休日は過ごしたいなぁと思うようになってきた。仲のいい友達たちと近くに住んで、お互いの家に集まって大家族パーティーもしたいな、なんて思っている。そういう小さな希望が、目標が僕を生かしてくれているんだと思う。

 

9月の終わりには22歳になる。