夜明

大学生の日々と写真

余命と夜明け

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ブログタイトルの「夜明」について。自分が高校生の頃からずっと意識していた「余命」、自分は残り何年生きられて何を成し遂げられるのか。Nirvanaカート・コバーンスティーブ・ジョブズの影響が大きかったように思う。そんな高校生の僕はかなりの強迫観念に襲われる日々を送り、人生について考え続けていたように思う。20代の間に死ぬだろうと本気で思っていた、本当につい最近まで。20歳の半ば頃から少しずつ考え方が変わり落ち着いてきたように思う。

 

だが、人生で成功するには逆算しながら生きていくことは避けられない。この考えは変わっていない。この「余命」という言葉は自分にとって重要なものだ。日々、何をするべきなのか、何をしていくべきなのかを考えていなければ時の流れに翻弄されるだけの人生になってしまう。

 

「夜明」は読み方を変えれば「よめい」だ。同じ読み方になるのにも関わらず、「夜明」は「余命」とは対照的な言葉だ。「余命」が終わりについて考える言葉であるのに対して「夜明」は始まりについて考えさせてくれる言葉だから。終わりばかり考えていても幸せになれないよ。ただただ美しい夜明けに心を動かされる瞬間というものも大切にしたいと思っている。

子供には絵本を読んであげよう

僕の家庭で本をよく読む人間は僕だけだ。父も母もそこまで読書を好むわけではない。年に数冊、気になったものを読む程度みたいだ。

 

本をよく読む子どもが育つためには、親が読書する習慣を持っていたりすることが多い。

 

読書の習慣を持っていない両親の間で育てられた僕はどんな風にして本が好きな人間へと育ってきたかを振り返ってみようと思う。

 

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まず大きかったのは絵本の存在である。幼稚園の頃は絵本をよく好んだらしく、毎日のペースで新しいものを読んでいたみたいだ。図書館をはじめとして、病弱だった僕は近所の病院に置いてあるものまで全て読んだ。欲しいと言った絵本を買い与えてくれた両親には感謝しかない。

 

絵本の次に漫画に目覚めた。小学校の頃だった。周りの友達はジャンプを読んだりコロコロコミックスを読んだらしていた。なぜか僕は買ってもらえなかったので、家にあった日本史の漫画を繰り返し読んでいた。なぜ買ってくれなかったのかはイマイチわからない。

 

極めつきは中学の頃に隠れて読んでいたライトノベルである。涼宮ハルヒシリーズから始まり、シャナ、とらドラ、デュラララ、生徒会の一存などなど本当にたくさん読んだ。ここで活字に慣れたことが現在の読書習慣を作った大きな要因だったと思う。

 

読書習慣をつけるためには適切なステップアップが大切であり、ライトノベルや小説は入り口として大きな役割を果たしていると思う。そして絵本は偉大だ。子供にもぜひ読書習慣を持って欲しいと思う。だから興味を持ったものに対してのサポートは惜しまないつもりである。

幼稚園からやり直してこいよ

読者の想定というものだとか、ブロガー同士の馴れ合いのようなものはしたくない。自分がめちゃくちゃブレるから。ブレッブレになるから。自分の今書きたいものを書きたいように、その時に影響を受けている文体で書く。投稿頻度とか気にしない、したい時に書く。そんなものにこそ価値がある。前に進むための文章を書きたいんだ。調べれば何処にでも載っているものを焼き直して小銭を稼ぐ。大して成功したわけでもないモブの成功哲学とか情報発信なんて誰も興味ないわけでね?だから読者の想定なんてしないで自分のためだけに書く。

 

 

つい先日、教授から「バカすぎるでしょ。幼稚園からやり直しておいでよ?」と怒られている生徒がいた。

 

21歳で幼稚園からやり直したら高校を卒業するのは36歳である。クソおっさんだ。15年後と言われれば何となくわかるが、深く実感は出来ない。みんなそうやって歳を重ねていくのだろう。そうして子供に人生は一瞬だぞ〜!って言うんだ。

 

だが、今まで経験してきた幼稚園〜高校生のことはよくイメージできるはずだ。あれをもう一回やると36歳のおっさん出来上がりになる。思っている以上に人生は短い。しかも体感時間が今までに比べて半分くらいになってしまうと言うではないか。幼稚園と小学校が終わるくらいの感覚で36歳、中学高校が終われば40代も終わりである。いつのまにか両親と同じ歳だ。

 

 

恐ろしいねぇ。

 

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表現と恩

今まで生きてきた中で出会った優秀な人間というものは総じて日本語が上手かった。トークが上手いという意味ではなくて、文章の構成能力、相手にイメージを想起させるストーリーの表現力といった点の話である。世界を表すために僕たちが使えるものは言語・数学・絵である。その中で人間が一番使うものが言語なので数学者だったり芸術家を除いて、自国語が上手く扱えない人間を僕は信用していない。思考の浅さというものはそこから現れて一瞬で相手に読み取られる。

 

 

自分も、インターネットの海を10年以上泳いできたわけだ。それなりに文章を書くことは好きだし、ライターとして記事の執筆も細々と続けているわけで。だが、一年前の自分が考えていたこと、書いていた文章を読むと馬鹿だなぁと思う部分は何時になっても変わらない。気がつけば21歳である。

 

 

そんな優秀な人間にとっての必須条件である、文章能力だが、自分はもう少しこの能力を高めたいのだ。文章によって自分の人生を描きたいのだ。過ぎ去った大切な思い出を描き残し、それを読んだ時にその情景が浮かぶような文章、昔の感情が湧き上がってくるようなものを描きたいのだ。そしてそれを誰かに読んでもらえたら、なお良いと思っている。なによりも文章を描くのは楽しいんだ。自分が一番楽しい。

 

僕は絵を描けない。だからこそ、文章を使って"描く"のだ。また別の部分で話せたらいいが、写真も好きでよく撮っていたし、たくさん影響を受けた。ここは僕の人生を通した、写真と文章を置いておく場所にしたい。基本的に写真はスマホで撮影したものを使用している。早くちゃんとしたカメラを買いたい。

 

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ブログを始めようと思った理由も、ネットサーフィンをしていて偶然たどり着いた、全く無名のブログたちを読むのが好きだったからだ。

同年代の人間がどんな風に考えて、どんな本を読んで映画を観て何を吸収して、何をしているのか知るのが好きだった。

恩返しというまで大層なものではないが、いつか同じような体験をする人々の人生の一部になれたらいいと思っている。

 

http://www.mocchiblog.com/?p=16062

このブログが僕は好きだ。10年近く自分のことについて書いてある。そんなブログにしたい。