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幸福に生きよというある哲学者の言葉

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原因論と目的論、トラウマなどは関係がなく、家から出られずに人間関係が怖い人は家から出たくないという目的を持っているから不安という感情を作り出している。原因論で考える限り議論を前に進めることができない。トラウマなど存在しない。問題は何があったかではなく、どう解釈したかに帰結する。プラスはプラスに捉え、マイナスもプラスに捉えれば幸せになるのは当たり前。

 

大切なのは何が与えられているかではなく、与えられたものをどう使うか。人間のすべての悩みは人間関係における悩みである。アドラー


劣等感とはただ自分における主観的なものでしかなく、他者と比較したコンプレックスなどは自分がそれに対してどのような意味づけをするか、価値を与えるか。

劣等感は前に進む勇気があれば成長の良いバネになる。だが、そのせいにして立ち止まってしまうことがいけない。まあ人生なんて捉え方次第って話よ。アフリカや戦場に比べたら死ぬほど幸せなんだから。


劣等感やコンプレックス、不幸自慢などは相手より優位に、特別な存在になれる。だから風邪をひいている時に俺は風邪を引いているアピールをして安心感を求めようとするのは風邪ひいてるから特別扱いされたいんだ。そうして心配されて面白くなくても許されようとしているんだ。


人間関係において嫌いな人とは嫌いになりたい目的があって、その中から嫌いな理由を考えている。好きな人は好きになりたい理由があって好きな場所を探している。


承認欲求をアドラー心理学は否定する。人からの期待や評価を求めて生きてはならない。他者の人生を生きることになる。ほんとうの自分を捨てることになる。他者もまた私の期待を満たすために生きているわけではない。だから支配できなくても怒ってはいけない。


嫌われたくないという目的のために自分に嘘をつき、周囲の人に対しても嘘をつき続ける生き方を選択している。他者は他者であり、他者の課題には介入せず、自分の課題には介入させない。そして嫌われてもいいという気持ちで接する方が自然であり、そういうパターンの方が俺は成功してきた。ほとんどの人間がそう。恐れている相手と心の底から理解して付き合うことなどできない。


対人関係の人ゴールは共同体感覚、敵と仲間で分けたら、周囲の他者を仲間とみなし、自分の居場所はここであると感じること。劣等感や恐怖などを持つことなく、愛する人に囲まれている状態、それがゴール。

承認欲求に囚われる、他者からの恐怖に固執する、それはすべて自己中心的なものであり、自己への執着、自分にしか関心がない状態。他者を見ているようで自分しか見えていない。だから他者への関心へシフトし、何を与えられるかどうかを考える必要がある。共同体感覚と居場所をそうして作っていく作業、それが人生のタスク。


どんな人も羨むのは人間関係が豊かな人。その結果に楽しそうに生きている人。お金があっても何があっても人を信頼せず、心を誰にも許さなければ本能的に心の底から幸せにはなれない。すべての人間は対等なのだ。それは自分から相手を見る場合も相手から自分を見る場合も同じであり、縦ではなく、横の関係で見るのだ。相手が上の立場であろうが下の立場であろうが関係はない。

 

哲学的な幸福議論においては全てこのアドラー心理学という捉え方の哲学に帰結するのである。これ以上の説明の仕方は存在せず、他の何を持ってしても人生というものはここに戻る。ヴィトゲンシュタインの幸福に生きよとは近しい思想なのだ。幸福に生きるために僕たちは何かを成し遂げようと日々辛いことも楽しいことも繰り返しながら生きているのだから、その目的を達成するための正しい選択をすることを恐れてはいけない。

 

嫌われる勇気のまとめ、読みながら思ったこと